萬寿山 蓮華院 光明寺

0982-32-2307

お寺紹介

光明寺の歴史

寺院 萬寿山 蓮華院 光明寺(まんじゅざん れんげいん こうみょうじ)
宗派 真言宗 醍醐派(しんごんしゅう だいごは)
本山 総本山 醍醐寺
〒601-1325 京都市伏見区醍醐東大路町22 TEL:075-571-0002

延岡が県と呼ばれていた時代、土持相撲守が、延岡で最初の城となる井上城を築いた。古城町という地名は、この井上城に由来する。さらに、養和元年(1181)豊前国宇佐郡から智賢法印を招き、鬼門除けとして光明寺を創建した。

鎌倉・室町時代をとおして隆盛したが、戦国時代になって大友宗麟の侵攻により土持氏が滅亡。光明寺も衰微し、現在地に再興される。

慶長15年(1610)有馬直純が、肥前国高来から入国。当寺の尭意法印に帰依して、寺領百石を寄進し、高千穂など32村の廻檀を許された。これ以来、三浦家、牧野家、内藤家の代々の領主の祈願寺となった。さらに真言宗醍醐派の日向国の袈裟頭となり、修験道の中心となる。

明治の廃仏毀釈および修験道禁止令により、末寺や修験の寺院とともに廃寺となった。明治13年(1880)再興の許可を得て、順次伽藍を再興している。現在の諸堂は、いずれも近年の再建となる。境内は白壁に囲まれており、道路に面して切妻造四脚門の山門が建つ。本堂は鉄筋コンクリートで入母屋造。本堂の本尊は、阿弥陀如来立像と脇侍の観音菩薩と勢至菩薩、いわゆる阿弥陀三尊で、室町時代の作と伝えられている。また、不動明王像や地蔵菩薩、十一面観音菩薩、毘沙門天、勝軍地蔵菩薩などの諸尊が安置されている。

本堂の右側に、淡島大明神を祀っているお堂がある。淡島大明神は、和歌山市加太の淡島神社が本社である。淡島は住吉大神の后だったが、下の病にかかり、夫婦の道に障りがあるとされて堺の港から流され、3月3日に加太に流れついたといわれる。そして、自分と同じ病の者を治す誓願を立てたという。以来、婦人の病に霊験あらたかな神として、全国で篤く信仰されている。光明寺には江戸時代に勧請されており、当地方では唯一の淡島大明神である。毎年3月3日には、大般若転読法要、柴燈大護摩、火渡りの行がおこなわれる。

淡島堂には、同じく海に関係する恵比寿太神を合祀している。こちらは、延岡七福神の1つである。また、壁に沿ったお堂に、西国三十三観音霊場ご本尊などの石仏が並ぶ。

光明寺の紹介

県立延岡高校へ向かう車道をいくと山門が見えてきた。古城町は大瀬川のほとり、のびやかな雰囲気の住宅街に光明寺はある。
山門をくぐると想像以上に広い境内、そして静謐な寺域。白壁に囲まれているためか、気持ちがしっとりと落ち着く。かつて境内には茶畑があったそうだが今はなく、数本の梅が残る。2月には香り高く春を告げるのだろう。

境内の脇に目をやると、ずらりと並んだ観音様。西国三十三所観音石仏がそれぞれに優しいお顔で出迎えてくれた。こちらも思わず、ほっこりとする。そして正面には鉄筋コンクリート造りの本堂。昭和57(1982)年、谷山光永住職の代に建て直されたものだ。
光明寺は養和元(1181)年に井上城の鬼門除けとして建立された古い歴史を持つ。井上城は延岡で最初の城である。日向国修験道の中心となった時代もあった。

本堂の隣には鳥居があり、少し奥まったところに小さなお堂が見える。境内の守り神、淡島大明神だ。

光明寺の本堂には、南北朝時代に造られたという本尊・阿弥陀三尊を中心に、弘法大師、十一面観音菩薩、地蔵菩薩、愛宕将軍地蔵菩薩、萬寿不動などの仏像が安置されている。外光の射す明るい本堂に座り、向き合うと、天空から地上世界に現れたお姿を見ているようだ。

お許しをいただき萬寿不動尊のそばへ。下唇をぐっと噛んだ口元や、盛り上がった頬がりりしいお顔だ。江戸時代の作とされるが、仏師は分かっていない。「美しいお姿でしょう?」と谷山光信住職。決して大きくはないが、紅い迦楼羅焔はひとうねりして上へのぼり、全身から力がみなぎる立ち姿には目を見張る。

萬寿不動は厄除け、身代わり不動。不動明王護摩供は毎月7日で、檀徒信者が無病息災や家内安全など所願成就を祈る。
光信住職に3月3日に行う淡島大明神の大祭のお話もしていただいた。光明寺は女性の守り神「淡島さん」でも知られる。大祭では淡島堂での大般若経六百巻転読の後、境内で柴灯護摩供、火渡りをする。参拝の女性はおき火に渡した丸太を歩き、健康や縁結びなどを願う。またこの日は四国八十八か所のお砂踏みもできる。弘法大師信仰の盛んな延岡の人たちにはなじみの礼拝でもあろう。

淡島堂には恵比須太神も祀る。延岡七福神のひとつでもある。

光明寺ではこうして古くから、仏様や親しみのある神様たちが城下町の人たちのさまざまな祈りを聞き届けてきた。その篤い信仰を思うと、じんわりと胸が熱くなる。帰り際、城山の鐘の音が聞こえてきた。居並ぶ観音様がその優しい顔で送ってくれる。また来ますね。そう語りかけてゆっくり山門をあとにした。

御詠歌

  • より参れば 陀の光明に
  • もる心も れ渡りける

札所

  • 九州八十八ヶ所百八霊場会 第32番札所
  • 九州三十六不動霊場 第11番札所
  • 延岡七福神 恵比寿神霊場
noimage延岡七福神 恵比寿神霊場

古城の淡島様

大正14年(1925)発行 「延岡大観」山口徳之助 著

明治初年神仏分離制度実施されて以来、延岡付近の真言派寺院は多く廃寺となったに拘らず、古城の光明寺のみは假令以前の面影は無くとも、最も角法燈の絶えないのは『淡島様』のお蔭だと云われる位だから、参詣者の多いことは想像が出来る。

由来を聞くと、淡島様は海神住吉様の御妃であったが、帯下の病に罹られたので独木舟に乗せ海に流されたが、運好くもトある島に漂着された。夫れで妃は痛く身の不幸を歎かれたが、同じ病で苦しんで居るものは自分一人ではあるまいと考えられ、之を救う為其の儘島に留まり余生を婦女子の為に盡されたのである。こんな神様だから婦人の願いとあれば病気の事は勿論、縁談も叶えば子宝も授け下さるとて参詣人が絶えないのだと云う。夫れに職業婦人側の信仰は大したもので、人力車参詣の殖えたのも其の為。中には自動車で華々しく御礼参りをするなど、熱誠振りは際立って見えるとは、神徳の程も察せられ有難い話である。